死んでからでは遅い弥陀浄土への道 NO2
第454回
いつもお読みただきましてありがとうございます。
長文でありますが、お読みいただけますときっと自分の人生に大きくお役に立ちます。
お読みくださり理解された方は自分の人生を必ず変えます。
前回の(こちら)
前回の大切なことは、死後のことを考えると「心が暗くなる」ことを「無明業障の病」と言う。
「無明業障の病」を知っておかなければ弥陀浄土には行く事が出来ません。
人の【苦るしみの根元は「死後が暗い心」】であるからです。
苦しみはすなわち自分が創った煩悩であり。
仏教用語で「煩悩」よく聞く言葉で
「煩とは」身を煩わす
「悩とは」心を悩ます
罪障とは煩悩によりつくる罪
では全ての苦しみの根元は煩悩からなのでしょうか?いいえ違います。
煩悩と言う治らない病に侵され苦しんでいる(心の悪人)
そうではなく、本当の苦しみの根本は「死後が暗い心の病」と親鸞聖人はおっしゃっております。
ある調査で、自分が死んだらどうなるかと尋ねたところ、
解んない、考えたくない、死んだことがないのに分からない、地獄かな、天国、以上のような答えがありました。
一番適切かなと思えた回答は、死んだことがないから分からない。
これは「輪廻転生」がまだ理解していない。
地獄が怖いので考えないようにしているこれは良く理解できます。
本で地獄絵図を見たことがあるので怖い。
私も昔、香港で地獄案内所のようなところがあり、あまりの恐怖に中には入れませんでした。
話が反れました、人の本当の苦しみは自分が死んだら何処に行くかであり死後のことを考えることが一番怖くこのことを解決することなのです。
死後が暗い心の病は(治る)親鸞聖人は苦しみの根元と言っております。
煩悩は(一生治らない病)なれど、枝葉に過ぎない、しかし煩悩はやがて喜びや歓喜に変えることができる。
阿弥陀仏は死ぬ前に【南無阿弥陀仏】を称えなさいと。
しかしこれには条件があり「他力本願」の心をもってなすと。
【念仏・南無阿弥陀仏】を称えること。
疑っては「弥陀のお浄土」には行けません。
信じるということは、「疑いの心」があるから信じるという言葉が出るとおっしゃっております。
ツユチリ程の「疑いの心」が無くなることで弥陀浄土に往くことができる。
他力本願によって叶う。
自力本願は叶わぬ。
阿弥陀様は死んだらどうな「一念でハッキリ」させると誓います。
此処での一念と何兆分の一秒より短い時間だそうです。
【弥陀の誓願に救われますと】二種深甚が立ち、他力信心と言っても二種深甚以外は有りません。
二種とは二つのこと、深甚とはハッキリ知らされることその二つとは「機と法」の二つです。
機とは私たち(衆生)のこと【堕ちるに間違いなし】ツユチリ程の疑いも無くハッキリしたを機の深甚
法とは阿弥陀本願本願こと【助かるに間違いなし】ツユチリ程疑いも無くハッキリしたのを法の深甚
阿弥陀仏がお約束されていること、この二つが同時にハッキリし永遠に続きます。
煩悩があるから衆生と言い、煩悩が無ければ衆生とは言いません。
私たちは煩悩の具足者と言います。
煩悩の塊を具足者と言い、100%煩悩で私たちの身体は出来ていると言われます。
【「弥陀の誓願」に救われますと「摂取不捨の利益」(りやくとよむ)】に!
「摂取不捨の利益」とは
「摂取不捨」とは収め取って捨てないということで、阿弥陀様があなたを救い取って一生捨てないということ「利益」とは幸福。
ガチッと抱きしめられて捨てられない幸福(無常の幸福)です。
自然と「南無阿弥陀仏」の念仏が口ずさみます。
この南無阿弥陀仏の念仏こそが私たち衆生を救って下さるたった六字の「南無阿弥陀仏」なのです。
阿弥陀如来は常に感謝しなさいと教えておられます。
信楽に救うと親鸞聖人はおっしゃっております。
(信とは)死後が暗い心の病が完治した
(業とは)幸福に救われた大満足の心 「心の長者」になりなさいと。
「心の長者」とは「摂取不捨の利益」を得た人です。
心の長者(こちら)になられた方は、永遠に色あせない(絶対の幸せ)になると言われた人です。
私たちの人生を振り返り見れば「一炊の夢」のごとき儚いものです。
「夢」と言う字から
「夢」くさかんむりを十を二つ書いて二十代の青年期、四が四十代の壮年期、夕はくれ行く老年期
これらから諸行無常を感じ取れるといいます。
名号「南無阿弥陀仏」を頂きますと大悲の願船に乗ったことになり障りも何もなくなり「煩悩も即菩提」になりましょう。
名号「南無阿弥陀仏」を頂いた人は必ず「無碍の一道」に出ております。
親鸞聖人は29歳で大悲の願船に乗り、「南無阿弥陀仏」を船にたとえ、私も大悲の願船に乗せていただきました・・・
結果・・・
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
「誠だった、本当だった、弥陀の願船は。
人間に生まれて良かった
生きていてよかった
この不滅の幸せにさせて頂くための人生だったのか
このために生まれてきた(仏になるため)
障りだらけの人生・・・かように申しております」。
私の現代語解釈ですが
誠だった、本当だった、弥陀の願船は
今迄は小さい船、嵐や風が吹くと壊れ沈む船、「南無阿弥陀仏」を頂いたお陰で今は障りも何もない大海原を安心して渡れる大きな船。
人間に生まれて良かった、生きていてよかった、この為に成るための人生だったのか。
これからは「生老病死で悩むことも苦しむことも煩悩も輪廻転生もない仏の世界で人を救っていける」良かった誠だった、この為の人生だったんだ。
親鸞聖人の師匠「法然さん」はこのようにお話されております。
後世をおそれ、往生を願いて念仏すれば終わる時必ず来迎せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外の事候わず。
命あるものは必ず死ぬと言う定めです。
では存在していた(人格や魂)は死後どうなりますか?
仏教では生まれ変わり来世を迎え、姿形を変えては生まれ変わりを延々と繰り返します。
その終わりなき生死を輪廻と言います。
死の不安が晴れ、心が永遠に安らぎ、いずれ懐かしい方と一つの場所で心を通わせたいと願うならば、阿弥陀仏の慈悲があると信じ念仏を称えて念仏を唱え往生を願う心一つです。
輪廻転生を終わりにして仏に。
往生を願う心に偽りはなく人目を飾る心のない事を至誠心と言い、真の心で往生を願って念仏唱えることで臨終には仏が来迎したまうと言います。
(法然上人法話「安心」)
何度も言いますが、お浄土に往くには条件があります。
1、「弥陀の誓願」ツユ、チリ程疑っては永遠に叶わない。
信じているという言葉は疑いがあるから信じていると言います。
2、弥陀浄土に往くには「他力本願」でなければならないと理解しなければ叶いません。
3、名号「南無阿弥陀仏」をいただく事で全ての条件がかないます。
4、名号「南無阿弥陀仏」を頂いたあとには自然と六字の「南無阿弥陀仏」の念仏がでて参ります。
5、大切なことは死んでからでは「弥陀浄土には往けません」必ず生前念仏を頂いてください。
6、往生とは「生前と死後」が幸せになれる「生前と死後」で往生となります。
お釈迦さまが教えてくださった、壊れない絶対の幸せをつかみましょう。
書ききれませんので次回に続きます。
ジュエリー・ニシオカ
にしおか まさる
世界中の子供が皆健康で幸せでありますように。
私を嫌う全ての人が幸せでありますように。