Last Updated on 2022年11月29日
第460回
いつもお読みいただきましてありがとうございます。
お読みくださり理解された方は自分の人生を必ず変えます。
「お前はお前で丁度よい」
石川県真宗大谷派常讃寺(ご住職の奥様)藤場美津路さんのお言葉を、お寺の寺報『法友』(1982年2月号)に掲載されたそうです。
本当に良いお言葉であり、自らを当てはめてよみますと「仏」からお言葉を頂いているようです。
このお言葉は、仏さまから私たちを見てのお言葉であります。
ご紹介いたします。
「お前はお前で丁度よい」
顔も体も名前も姓も お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も 息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度よい
幸も不幸も喜びも 悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は 悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと 行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく卑下する要もない 上もなければ下もない
死ぬ月日さえも丁度よい
仏様と二人連れの人生 丁度よくないはずがない
丁度よいと聞こえた時 憶念の信が生まれます
南無阿弥陀仏
よみ終えた時、これが自分の人生だったのかな、私には息子はなく娘であり「息子の嫁もその孫も」の文言を「娘の婿もその孫も」と変えて一読いたしました。
自分を見直すよい機会でもあり、考えさせられる機会でもありました。
ご住職さまの感話がありましたの一語余さず紹介いたします。
[住職感話]
「丁度よい」は、言い訳や安易な現状肯定ではありません。
それは、人間のことばではなく、「仏様のことば」だからです。
私が自分の人生を見て「丁度よい」のではなく、仏様が自分の人生を見て「丁度よい」とのお言葉です。
自分を離れて、自分が見える。
仏様の方から自分が見える。
そのことを念じて忘れないのが「憶念の信」です。
ある念仏者の、人生には善いも悪いもない。
その全てが私には最もそれでよいのだ。
此までの全ての出逢いや出来事は、自分を知る為の、一番分からない自分を見る事の導きだった、ということばに共感します。
以上
「憶念の信」とは
「憶念」とは、「心に堅くおもうこと」、「心に思いたもつこと」、「心に念じて忘れないこと」といった意味であり、
「憶念の信」とは、「阿弥陀仏の本願を信ずること」、すなわち「阿弥陀仏にお任せする(他力本願)」ということです。
類似言葉で【「自然法爾」(じねんほうに)】も、「阿弥陀仏の誓願によって私たちは救われている」「阿弥陀仏にお任せいたしますと(他力の本願」)でもあります。
「お前はお前で丁度よい」
よむことができたご縁に感謝しております。
他の人より「金、プラチナ、ダイヤモンド」にチョット長く携わっている普通の人間です。
ジュエリー・ニシオカ
にしおかまさる
生きとし生けるものすべてが幸せでありますように!