「縁起の法」と「煩悩」との向き合い方

Last Updated on 2024年8月28日

第488回

いつもお読みいただきましてありがとうございます。

前回は「因⇒縁⇒果]を書いて見ました。

こちら)

 

今日は「万物一体の真理」⇒「縁起の法」を見ていきたいと思います。

 

「縁起の法」一切とは(全てのもののこと)

縁起は、一切の現象が相互に依存して生じるという教えであり(空の考え方とお同じと思います)。

 

因縁は、ある現象が起こるための条件やきっかけ、つまり「原因と結果」という視点からとらえます。

 

最近、(瞑想中)自分の人生を巻物に描くかのように思考していきますと実に面白いことにきずきました。

幼いころから今に至る迄の現象は「縁起の法」のごとく展開されているようです。

 

昨年、ジュエリー・ニシオカにある宗教団体から5点の商品を購入し多額の金額を要求されその金額は数千万~億に及び、除霊と言う形で宝石を買わされその方はお亡くになられ子供さんがその時に購入された宝石を弊店に持ち込まれ鑑定して欲しいとの事であり、鑑定書は全て中央宝石研究所に依頼し、金の価格は鑑定日に合わせ田中貴金属価格で個別に全て計算をした結果宝石の価格は常識の範囲から大きく逸脱しており今後裁判で争うので、商品を個別に評価表を作成して欲しいとの依頼がありました。

その後お話では宝石購入料金と祈祷料金はセットであるため祈祷料は戻らなかったそうですが、宝石代金は全て戻ったようです。

新興宗教ではよく「因縁果、縁起の法」を悪用し先祖の因縁とか、これは今後家族の〇〇に現れる等と言って相談者を苦しみの中に放り込み先祖供養等と言ってお金を貪ります。

自分の先祖10代遡ると1024人になります。

 

お釈迦さまが説く仏教で先祖の「因縁果」はありません、「因と縁が和合」して結果が生じますので、因だけでは結果は起きません、また縁だけでも生じません。

仏教の根幹でもある「因果の道理」「因縁果の道理」または「因縁生起」とも言います。(こちら)

 

外道は相手の相談事に更なる巧みな言葉を使い不安におとしいれ、お金を要求致します。

 

お釈迦さまが説く仏教には先祖のたたりは一切ありません。

 

「因縁果」を教えない宗教は外道と呼ばれております。

 

「縁起の法」因縁果」は自分だけのものです、何故なら自分が招いたものです。

「先祖は先祖」「自分は自分」なので、ご先祖の祟りとかはありません。

 

菩提樹菩提樹の下でお釈迦さまが悟られた時

奇なるかな奇なるかな、一切衆生ことごとく皆如来の智慧、徳相を具有す、ただ妄想執着あるゆえに証得せず」

この意味は、私が理解した分かりやすい言葉で言いますと

思いもよらぬほど素晴らしいことだ、生きとして生けるもの皆生き方を知っている。皆如来の「智慧、徳相」を知っている、しかしこれらを活用できずにいる、人間は自分の心にとりつかれこの世からの借り物を自分の物と錯覚している。

我欲さえ捨てればよいものを、(執着や妄想を捨てさえすれば)利他の心になりなさいということです。

 

「証得」とは、真理を悟る事。

一切法は因縁生なりとは、

一切とは、すべてのもののことです。

 

因縁」とは原因のことですから

すべてのものは原因があって生じたのだ、すべての結果には必ず原因があるということです。

因縁」は一つの意味で使うときは

」=「で、どちらも原因ということですが、

 

その原因を2つに分けると、

」と「」は違う意味になります。

「因」は原因ということで直接的な原因であり

「縁」は助縁ということで間接的な要因であり「因」が結果になる事を助けるとなります。

自分の身にこのような苦しみ悩みが生じたなら

人生は、一切皆苦(人生は思い道理にはならない)なのです。

これらすべて自分の心が作ったものであり、その時は大きく深呼吸をして自分の心を静かな境地にしてあげることです

 

人間目指すところは一緒(万里一空の境地です。

 

未来に不安を覚えない人は 答えを急がない人。

何でもすぐに白黒つけたがるから、過度に未来が怖くなる、

わからないものは答えがでるまで放っておく。

 

これらは、煩悩をこれ以上大きくせず苦しまない方法です。

心静かな境地に至ろう

 

生きとし生けるものすべてが幸せでありますように

宝石ドクター  にしおかまさる

ジュエリー・ニシオカ