仏閣・仏像その-17(勝常寺)そのー2
第46回
こんにちはジュエリーニシオカのにしおかまさるです
今回は勝常寺の仏像にふれてみたいと思います。(勝常寺-1)こちら
勝常寺 山号 瑠璃光山 勝常寺は、南大門、中門、三重塔、を備えた七堂伽藍が奈良の古寺のように整然と立ち並んでいたと言い100寺を超える末寺も抱えた寺院でもありました。
本堂 ご本尊 薬師如来坐像(国宝)141.8cm (大きな内陣三間厨子に安置)普段は直接日に当たらないように暗幕が【斗帳というのでしょうか) ケヤキ材の一本造り 平安初期作 左手に薬壷
(本当に両頬(ほほ)がふくよかなお顔だちで慈悲深いお顔で、お手を合わせますと全ての病苦から救ってくださる優しいお顔の薬師如来さまであります)
勝常寺は施薬院(聖徳太子が四天王寺で薬草を育て病人、けが人などを収容する施設を作った事が始まりともいわれております)今でいう病院であり多くの病気で苦しむ人、飢えに苦しむ人、捨て子など、私が感じたことは多くの人々を救った寺院と思われます。
十二神将安置 本堂の正面左側に徳一上人坐像(86.9cm)安置
勝常寺発行の案内書には、磐梯山はその昔病悩山と呼ばれこの山には魔物が棲み色々と災いを及ぼし、一年中霧で作物が実らず平城天皇の命で弘法大師が赴き法力をもって魔物を退治し、将来会津の人々を守って下さる薬師像を五体造り会津に五つの寺院を建て薬師様を本尊としてまつることを弘法大師はお考えになりました。
前回ふれましたが、勝常寺は会津五寺の寺院。中央に位置し大切な役割を担っていたのではないでしょうか
しかし弘法大師はは急に都に戻る用事が出来徳一上人に頼んだという説があります。
弘法大師が会津に来たかは別にして徳一上人が薬師五尊を造らせたことは事実の用です。西の空海・東の徳一と称されました。
このころは、今のように学校はなく、学問はお寺で学ぶことが多く、学問を学ぶところでもあり、江戸時代に入りましても寺子屋で多くの子供は学問を学びます。
仁王門を入り正面には本堂、右側には平安時代の多くの仏像が所せましと安置される収蔵庫があります。
次回も勝常寺の平安時代の他の仏像にふれてまいりたいと思います。
さいごまでおよみいただきましてありがとうございました。
にしおかまさる