煩悩をつくり出す「因縁果」のおそろしさ
第486回
いつもお読みいただきましてありがとうございます。
仏教の投稿は半年ぶりの投稿であります。
ホームページには宝石ドクターと言う新しいページが追加され半年が過ぎました。
宝石ドクターって何だろう。
詳細はこちらから。
相も変わらず下手な文章だと思うでしょう、私なりにどなたさまにも分かるように書いているつもりです。
難しい言葉では書けませんのでお許しを。
ゴールデンウイークから昨日迄今一度「因縁果と煩悩」を学ばせて頂きました。
我々を一番悩み苦しませる煩悩とは。
仏教は学ぶほどに素晴らしい教えがたくさんありこの身が毎日反省の日々であります。
師もなく仏教を学ぶ、私の年齢では理解し覚えるには多くの時間が必要でそれでも何度もくらいつき理解できた時には無上の喜びがあります。
学んだことを今の自分に照らし合わせ常に反省すべきことばかりですが日々前向きに考えます。
「因縁果」は何度もこのブログで書いてまいりました。
すべての苦しみの根元である(因果応報)または(宇宙の法則)とも
因⇒縁⇒果 (こちらから)
全ての原因は自分にあり⇒因と縁が結びつき⇒果が生じます。
結果すなわち煩悩です。
因縁果によって作りだされたものは全て無常であり、無常とは世の中にあるものすべてはいずれ放っておいても崩れます。
「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我』「涅槃寂静」これらのことを【四法印】と言われます。
無常とは、今の自分の苦しみさえも放っておくとそれは長期間を要するかもしれませんが滅します。
何時になるかは各人の「因」によって変わるかと思います。
因縁果で生じたものは誰も消す(消滅)ことはできず神仏にお願いしても助けてはくださらないそうです。
こんなにお願いしているのにご神仏は私の願いを聞いてくれないと思うのだけは止めた方がいいです。
またそこに新たな煩悩をつくっているからです。
その時期が来なければ滅しないということです。
(因果応報)はいつ生じるかはわかりません「因と縁」によって生じたことを(因縁果)と言います。
自分の無明から苦しみがはじまりそれが煩悩となりたくさんの執着心が自身をこれでもかこれでもかと長期間の苦しみが突然はじまります。
しかし煩悩は無常でそのうちに崩壊しますので決して何故自分だけがこんなに苦しんでいると思わず(自分がつくったもの)耐えること「忍」です。
「無明」とはこの世の真理を知らないこと。(愚かであるということです)
「無明」とは言語、すなわち
苦しみの原因である無明とは
言葉を用いることにより存在しない筈の実態がまるであるかのように感じてしまいそれが妄執となり執着を呼び苦しみが生じます。
瞑想をすることによりその言語を滅することを修行するための良い方法であり、目を閉じ静かに呼吸をすることで言語が想起されるのを身体感覚で制御するのです。
無明と言う根本原因を滅することができると思います。
煩悩は【身口意】からと言い「身業とは身体的行為、口業とは言語的行為、意業とは意思的行為」です。
これを身口意の三業
釈尊は「生まれによって人となるのではなく、行為(業)によって賤しくなると」
以前は何か生じたなら「あの人の業」は強かったからね。
「口業」は「言語」であるので言葉に気をつけなさいと、この言葉と言う言語が生じることによって執着が生じ苦しみが生じるのです。
この例えは「口から出た悪口」すなわち業です。
言語を滅することで執着を滅しあらゆる苦しみから救ってくれます。
言葉によって縛られないあるがままの世界、我々が苦しんでいるその苦しみを滅するのではなく、自分と言う錯覚を滅するのです。
何故なら煩悩は「因縁果」の「果」であって「因」ではないからです。
そして(世界は「空」なりと観ずるとはそれは「言語」によってとらわれないあるがままの世界では全てが常ならざるもの(無常)ここには(自我)は成立しません。
常ならざるもので自我は存在しないからそこには苦しみは滅するのです。
苦しみを滅するのではなく自分と言う錯覚を滅するのです。
自分はこの世を空と観ずることによって言語と言う性を滅するのです。
言語を滅するところに真の自由があり自身の内なる静寂を見つけることで本当の幸せが見いだせます。
幸せと思う心は自分自身がつくりだし感じるものであります。
(般若心経)のお経には(空)(色)(無)がよく出てまいります。
やっとですが少し意味が解ってきました、まだ声を出して言えるほどではありません。
私はこのように考えます
正しいかは別にして自分を滅したならそこには自分はいないのですから悩み苦しみは生じない筈だと。
いつもブログを書いていて自分本位の物の考え方になっていないか、お前が「言うか」と言われそうです。
私の、この身も心もすべて煩悩の塊(煩悩具足の凡夫)
沢山の煩悩を抱え私から煩悩がなくなると本当に自分の姿がなくなるのではと思います。
仏教の教えに「放下着」と言う言葉あり(いっさいの執着を捨て去りなさい)
すべての煩悩を捨てた者には苦悩がない、自我、我欲を捨てることだと。
多くの悩み苦しみを抱え煩悩とは何かを知りたく(歎異抄)から仏教を学び、経本の意味は難しくとも今はパソコンで学べる時代です。
最近、道元さん
「身心脱落」をやっと遅きながら理解できました。
仕事以外のものを覚えるには、普通の方が所要する時間の何倍かを要しておりいつも電車、病院、車の助手席、睡眠前などノートを開きおさらいです。
曹洞宗 道元さんは
「山川草木、日月星辰」、この世界のすべてである。
この世界のすべてに自分が生かされていること、その世界の命をおのれの命として生きていることに目覚めるとき新生の体験が訪れると
このことを「身心脱落」と言うと。
身心脱落の意味
肉体(身)精神(心)も一切のしがらみから逃れ解放された自由な精神状態に至った境地。
苦しみ、悩みを滅するには自分自身を変えるしかありません。
昨日仏壇の前で我が身にこれが煩悩即菩提かと思われる不思議な現象をこの身に感じました。
この時は大きな喜びが。
煩悩即菩提で氷の例えがあり、いまもってこれが何故か理解に苦しみ、言っていることはわかりますがいまだ意味が・・・・・
最後に、毎日起きたら今日も一日善いことをしようと声に出して下さい、それだけで心は良い方向へ進んで行きます。
心は必ず変わって参ります。
煩悩も無常なのです。
私は、心も善き方向に移り変わるので「心の無常」と言っております。
生きとし生けるものすべてが幸せでありますように
宝石ドクター にしおかまさる
ジュエリー・ニシオカ