懺悔をしても煩悩は生涯消えず、消す唯一の方法。
第458回
いつもお読みいただきましてありがとうございます。
長文でありますが、お読みいただけますときっと自分の人生に大きくお役に立ちます。
私のブログの中でも一番多く読んで頂いているのは
「懺悔・懴悔・六根清浄、今後の人生に大きな変化があります」(こちら)
今日は、なぜ懺悔が必要なのかお話し致します。
仏像好きから、仏教に興味を持ち母を亡くしてからが家の宗派浄土真宗を出来る限り学ぼうと、その結果。
仏教の神髄は、「幸せになること」と歎異抄(こちら)に書かれ、それも「絶対の幸せ」になること。
70年以上生きて参りますと自分の人生は「煩悩の塊」日々煩悩は大きくなるだけで仏教では煩悩で穢れているということから、「有漏の穢身(うろのけしん)」といわれます。
煩悩が漏れているということで「煩悩を有漏といい」 穢身とは、穢(けが)れた身ということです。
私の煩悩は満ち満ちて塊となっております。
親鸞聖人の(教行信証)に
【至徳(しとく)の風静かに衆禍の波転ず】
「至徳(しとく)の風静かに」とは順風の時
「衆禍の波転ず」とは逆境の時です。
人は悪業を重ねますと当然仏教の根本である「因果応報」が生じます。
此処での悪業とは警察沙汰とは違ったものを言います。
しかし極悪非道も【「自因自果」そして「縁」】にあったなら必ず生じます。
「自因自果」「善因善果」「悪因悪果」
「因」とは原因である種で、「果」は蒔いた種の結果なのです。
「因・果」に「縁」が無ければ因果応報は生じることなく、そこには必ず「縁」がからんで参ります。
蒔いた種に応じた長い長い苦しみがやって参ります。
(縁)例として
「縁」とは庭に花の種を植え、その後適度な雨にも恵まれ陽ざしも良く花が咲く環境が出来たなら花は咲きます。
この「種・陽ざし・環境」がそろって初めて花が咲く、これを「縁」があったと言い、結婚も同じです。
「過去の因を知らんと欲(ほつ)せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲(ほつ)せば其の現在の因を見よ」
これほど分かりやすい因果の法則もありません
仏教では【「因果応報」は縁がなければ】起きないと言われ、煩悩は消えることもなく「衆禍の波」が転じます。
このことを「転悪成善」とか「煩悩即菩提」と言います。
転ずるとはどのようなことなのでしょうか?
分かりやすく言います
自分の心が少し改心され、過去の悪業が数々思い浮かべ罪の深さにおののき後悔の念であふれ、自分の蒔いた種「因」を懺悔せずにおられなくなることです。
何故かと言いますと、「自分が蒔いた種に驚き善の心が生じる」からであります。
ちなみに「自因自果」は毎日発生するとも言われております。
この時に起こる懺悔は「後悔の念」でいっぱい、これにより「自因自果」は自然と毎日懺悔するようになると思います。
人は毎日【「身・口・意」で業を(煩悩)】つくるので、その日のうちに「必ず懺悔を行い煩悩を大きくしないことです」。
人は「煩悩具足の凡夫」と言い、簡単に言うと人間体のどこを割いても煩悩だらけ、だから100%煩悩の塊であり煩悩を取ると何も残らないと言われます。
ただ、これも誰もが「転悪成善=煩悩即菩提」になるとは限りません。
除夜の鐘を108回聞いたところで煩悩は一つも無くなりません。
阿弥陀仏が自らの「正覚」を掛けて私たち衆生を救うとお約束された「絶対の幸福」。
このことを【弥陀の誓願】と言われます。
どの様にしたら絶対の幸せを頂けるか❓
【阿弥陀仏の「南無阿弥陀仏」という名号】を頂くことで、煩悩も「転悪成善・煩悩即菩提」絶対の幸せになれると説かれております。
今の幸せは皆全てが絶対の幸せではなく一時的な幸せなのです。
その幸せが毎日が続くとは限らないから不安が生じます。
健康診断で思いもよらないことが起こり得るのです。
これが私たちの人生であり
人生には明日という日は保証されてはいないのです。
縁起が悪いと言わず「死生観」をしっかり見つめて下さい。
必ず人間は100%死ぬのです。
「暗い心」になるのは当たり前です。
死を考えると怖い、どなたも一緒。
阿弥陀仏の【名号「南無阿弥陀仏」】を頂くのです。
頂くのに必要なものは、「他力本願」でありこの「他力本願」の意味が違って理解しますと永遠に【名号「南無阿弥陀仏」】は頂けません。
私もかって、「他力本願で極楽浄土に往けるか」と思っていた人間です。
何度も聞くうちにだんだんと「他力本願」の意味も分かり、お釈迦さまも言うので大丈夫かな。
何度も聴聞を繰り返し、あっという間にいつの間にか「弥陀の願船に乗り信心獲得」をしておりました。
今の幸せは必ず壊れてしまい
あるものは永遠に続くことはなくこの世は「諸行無常」です。
どんなにお金持ちの方でも、病気では海外旅行さえ自身の力では叶いません。
余命を宣告されても家族はあの世迄付きあって往ってはくれません。
地位、名誉、それがどれ程のものなのでしょうか❓
死んだら全て無くなります。
どんな人も、必ず人は「自業苦(じごく)」に堕ちるとお釈迦さまは説いております。
親鸞聖人さえ自分は死んだら地獄に堕ちると言われたのです。
しかし弥陀の誓願(18条を知り)「他力本願により絶対の幸せ」を掴みお浄土に、「これは生きているうちに」ご本人が弥陀の誓願は真だったと言っております。
僧侶は結婚は許されておらず、まして動物、魚を食するなどとはとんでもないこと、しかし親鸞さんはあえてやっていけないと言われていることに挑戦され、今で言う誹謗中傷される中に飛び込んだのです。
お釈迦さまは生涯かけて(阿弥陀仏)のお約束された「弥陀の誓願」を説いて回っていたのです。
親鸞聖人も生涯をかけ「弥陀の誓願」のみを説いて回り、このことを「平生業成」と言い、親鸞聖人の一枚看板「平生業成」と言われております。
最初は誰が聞いても自分のような人間が弥陀浄土にそれも「他力本願」で冗談でしょう、嘘でしょう、このように思うことが当たり前なのです。
そのうち何度も何度も聴聞しますと少しだけ信じます。
この信じますは、まだ心底信じておらずまだ「自力本願」なのです。
何度も聴聞することで、疑いが露・塵・ほども無くなり阿弥陀さまに感謝の念仏と思い立つその時【「信心決定」され「弥陀の願船」】アッという間に乗っております。
弥陀の誓願「疑心あることなし」と親鸞聖人は伝えております。
「他力本願」とはすなわち阿弥陀さまの「本願力」を言います。
「他力本願」を誤解される方も多く、私もその一人で「他力本願」とは「阿弥陀様の本願力」を言うのであって、他人がミスをしてそれで自分が得をするのではありません。
【弥陀の誓願(18条)】に一度救われますとその幸せは色あせることなくこの世でも絶対の幸せ、死んだなら阿弥陀さまがお迎えに来て下さり弥陀浄土へ往き仏として生まれ変わります。
弥陀の誓願は自分が生きている時にしかいただけません。
死後は頂くことはできず生きている時のみいただけます。
この救われることを「摂取不捨の利益」と言われ、阿弥陀さまがあなたをガチット収め取り、もう手放すことは有りませんと言われているのです。
「死後が暗い心の病」が治り無上の幸福に生かされた。
この無上の幸せを「無碍の一道(むげのいちどう)」と言われております。
「無碍」の碍(げ)とは「さわり」を言い、欲や怒りとか言う「煩悩」や障害を指しております。
「無碍の一道」は、願船に乗りますとお浄土に往く(煩悩)の障りも無くいつ死んでも必ず極楽浄土に往けるとハッキリ致します。
煩悩もそのまま喜びに変わる(煩悩即菩提)不思議な世界、誰にも納得できる説明は至難の業と。
歎異抄冒頭に
『弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて往生をばとぐなり』と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこる時、すなわち「摂取不捨の利益」にあずけしめたまうなり。
輪廻転生も無く、その幸せも壊れることなく未来永劫、仏としてお浄土に。
これをお約束した阿弥陀仏は自分の「正覚」さえ捨てると言って私たち衆生を助けるため苦しい修行をされ、完成されたのが
【「念仏」南無阿弥陀仏】です。
「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀如来」の「名号」であります。
これは法話でお聞きしたのですが
私は(阿弥陀仏)あなたを救う仏となりましたよ。
私は(南無阿弥陀仏)という名前の仏とけになりました。
私の名前に智慧と慈悲を込めて、この世界に満ち満ちて、あなたの命に満ち満ちて、あなたの口から「南無阿弥陀仏」がこぼれでてきましよう。
そしてあなたをお浄土へ連れて帰ります。
普通「南無阿弥陀仏」はただの念仏と思いがち。
知らない人は「南無阿弥陀仏」と唱えると陰気くさいとか縁起でもないと言うのです。
しかし「南無阿弥陀仏」は(名号)お名前なのです。
「南無阿弥陀仏」と唱えることは感謝の心。
慚愧懺悔は一年以上前に投稿したもの、今では懺悔はいかに大切かを身にしみ、人はどなたも苦しみ悩み生きております。
私のような素人が書いたのでは意味が分からないかも知れません。
しかし書いていることは知り得た限り精一杯お伝えしております。
誤解しては困ることは弥陀の願船に乗っても煩悩は一生ついて回り、後世にも引き続きます。
お浄土に往けたなら、仏として生まれ変わっておりますので煩悩は消滅致します。
もう輪廻転生は無いのですから。
お読みになられた方が一人でも救われたならこんなうれしいことはありません。
他の人より「金、プラチナ、ダイヤモンド」にチョット長く携わっている普通の人間です。
ジュエリー・ニシオカ
にしおかまさる
世界中の子供が幸せでありますように❣