高台寺は秀吉&北の政所の思い出の詰まった寺院-2

Last Updated on 2021年2月10日

第67回

こんにちはジュエリーニシオカのにしおかまさるです

高台寺のその日は11月も終わろうとしておりましたがとても暖かく、寺院を訪れた多くの方でにぎわっており、休憩所には紅葉された落ち葉 中に入りお茶をいただきながら何気なく戦国時代(高台寺=伏見城=大阪城)を考えてしまい、時の関白秀吉は伏見の城で何を考え、北の政所は何を思ってともに伏見の城にいたのかを考え見ますと、天下人となりわずか8年後1598年9月18日に伏見のお城で亡くなりますが、その数日前から、秀吉は大老・奉行などを枕元に呼び自分の亡きあとは嫡男秀頼を頼むと懇願され亡くなります。

秀吉も、自分の亡きあとは 大老の中でもとくに 秀吉自身もっとも恐れ警戒していた徳川家康に秀頼公のいくすえを何度も何度も秀頼を頼むと懇願しております。

天下人と言っても、最も恐れた徳川家康を開拓困難と言われた江戸に体のよい追放です。

徳川家康のように完全なる天下人とはいえず、戦国時代が再び始まり秀吉亡くなりわずか2年後1600年には関ヶ原の合戦が、豊臣家1615年に大阪夏の陣で滅ぶ。

 

秀吉辞世の句 『露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは 夢のまた夢』

文献によりますと 露のように世に生まれ 露のように消えていく 大阪城で過ごした日々は夢の中で 夢を見ているようなことだった・・・という意味だそうです。

 

天下人となり秀頼が誕生してからは人が変わった様に、自分が秀次に譲った関白職、その後の残忍な仕打ち。秀次のものは全て破却してしまう所行、足りずに女子供まで惨殺。

但しこのことは多くの文献で見る事が出来  真実は?

 

秀吉も(豊臣家は徳川家康)によって滅びると感じていたと思います。

 

秀吉亡き後、(北の政所も天下はいずれ徳川家康に移行)すると悟っていたと思われます。夫亡きあとは伏見城をでて、京都に移り秀吉の菩提を弔うため高台寺をその後(ねねは・高台院)とも呼ばれます。

高台寺から大阪城が落ち赤く燃え上がる炎を北の政所は見ていたそうで涙し、高台寺からは 豊国神社の方角に向っていつも合掌していたと寺院の方が説明されておりました。

しかし自分たち夫婦には実子ががなく秀吉亡き後も加藤清正(名城熊本城改築され一大名のお城では日本一で有り・銀杏城ともいう)福島正則らが再三高台寺に訪れ、西方か⦅石田三成)東方(東川家康)につくかを相談もされ母親のように慕ったそうです。

次回に続きを書いてみたいと思います

さいごまでおよみいただきましてありがとうございました

にしおかまさる