高台寺は秀吉&北の政所の思い出の詰まつた寺院ー1

第66回

こんにちはジュエリーニシオカのにしおかまさるです

京都の寺院、一番最初にブログで書いてみたいと思ったのは、(空海の東寺)(豊臣秀吉妻北政所の高台寺)この二つの寺院で迷いましたが、結果として戦国武将に大変興味があり豊臣秀吉の妻、北の政所・高台寺に第60回は決めました。

 

高台寺を訪れたのは2015年11月30日であり、この日はコートも必要なく とても暖かく人力車で2時間程京都を見て回り高台からは紅葉が京都の隅々まで綺麗に染めておりました。

 

降りてすぐ近くにいくつかの寺院があったのですが 高台寺に入りました。

 

【高台寺】高台寺とは豊臣秀吉の正室である(北の政所=高台院)(関白の正室に送られる称号)が秀吉の冥福を弔うために出来た寺院であり(蒔絵の寺)とも言われております。

【蒔絵の寺(まきえのてら)と呼ばれるのは霊屋【おたまや】の堂内の装飾は桃山様式の蒔絵といわれ、北の政所も多くの蒔絵を所有していたことで蒔絵の寺とも言うそうです】

 

私の戦国時代の一番好きな武将、豊臣秀吉(太閤殿下)も農民から裸一貫で天下人までに出世した秀吉、天下統一から8年後1598年に伏見状で病死。

豊臣秀吉辞世の句  (露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは 夢のまた夢)

 

この辞世の句は何を言いたかったのだろうかと、自分なりに何度も考えました。(次回に)

自分が死んだなら、豊臣家はきっと滅ぶであろう・・・豊臣に代わって・・・徳川家康に!

浪速⦅大阪)を指していたと思い、自分が亡くなったあとは何も残らないであろう。天下人になったほどの人物が自分亡きあと後継者はだれがなるかは十分に分かっていたと思われ、秀吉の妻北の政所も同じ考えであったと思います。

秀吉は、妻(ねね)がいなければ天下人にはなれなかったことを一番良く知っていたと思います。

北の政所は、秀吉の没後高台寺で秀吉の菩提を弔いながらも、文献によりますと、関ヶ原の合戦(1600年)にもいろいろな人物とかかわっていきます。

北の政所は、伏見城から(1591年関白と聚楽第を豊臣秀治に譲り自身の隠居城となる)お二人が愛した、傘亭・時雨亭を移築いたします。

この続きは次回で書いていきます。

さいごまでおよみいただきましてありがとうございました

にしおかまさる