生きとして生けるものすべてが幸せでありますように!
第472回
いつもお読みいただきましてありがとうございます。
いままでブログで仏教のことを書いてまいりました。
お断りいたしますが私は、「宝石、貴金属」人より少し経験が長いだけで、決して仏教を強要しているわけではありません。
そもそも仏教って私も詳しくは知らず、お釈迦さまと諸仏には興味ありました。
Weblio辞書には諸仏とは「いろいろの仏のこと」と有ります。
仏教とはお釈迦様の説かれた教えを仏教と言い、お釈迦さまが説かれたのは阿弥陀如来の本願一つを説かれたものと言います。
以前は仏像に非常に興味を持っており、しかし昨年歎異抄に出会ってからは仏像はひとまずお休み状態、「歎異抄に書かれている弥陀の誓願」にとても興味がわきました。
仏教は聴聞からと言いますので「阿弥陀如来の本願」とは納得がいくまで調べ聴聞もいたしました。
阿弥陀如来の「本願」とは約束を意味致します。
阿弥陀如来が衆生にお約束をされ、阿弥陀仏になり【名号「南無阿弥陀仏」】となったのです。
お釈迦さまは阿弥陀如来という仏のお約束されたことを衆生に教えるためです。
全ての人を必ず助けるというお約束「弥陀の誓願18条」です。
どんな人も、必ず助ける、絶対の幸せにする
罪業(ざいごう)は深重(じんじゅう)必ずなりとも弥陀如来は救いますと。
悪人すら絶対の幸せにすると。
人は、今日のできごとを懺悔するようなことをしていないと思っても必ず犯しており懺悔に値すると。
「人間善いこともすれば悪いこともする」と、池波正太郎さんの鬼平(鬼の平蔵)が良く使っていた言葉です。
歎異を読みながらワクワクしました。
どこの世界に私のような悪人(煩悩が強い人間)を往生せてくれますか?
世間で云う、隣の○○さんが今朝がた往生したんだってね。
この往生とは異なり、阿弥陀仏のお約束の往生とはどんな罪業の深い人もお浄土に救うというお約束です。
この世は「諸行無常」で必ずあるものは壊れなくなります。
絶対の幸せにするというのは、崩れることの無い本当の幸せです。
親鸞聖人は生涯をかけこの彌陀の誓願を説いて回りますが中々聞いてくれずご苦労なされたようです。
今の時代でもどんな人も救って下さると言っても信用しない方が多いと思います。
私のような人間も入るのかなと思われた方がたくさんおられたと思います。
阿弥陀仏のお約束だから本当だろう、ましてお釈迦さんが生涯をかけて説いたというのだから、話くらいは聞いてみようか。
絶対の幸せを信じた人のなかにも、嘘だろうと思った人もおられたはず。
何度も何度も聴聞する度、六道へ堕ちるなら、信じてお浄土へ往った方がいいと思う人がいたと想像いたします。
しかし念仏を称えているだけではお浄土には往けません。
先ずは、「後生の一大事(死んだ先のこと)」を知らなければ往けません。
お浄土には今生きているこの時に「心信決定して下さい」と親鸞聖人は言っております。。
死んでからでは行くことが叶いません、六道でさまよって苦しむことより、生きている今信心決定してお浄土へ。
死んだら助けるという話は到底受け入れられなかったでしょう。
このように話されているから念仏を唱えてみようでは「自力の本願」となりお浄土には叶いません。
あくまで阿弥陀仏の本願力「他力の本願」でなければ。
他力の本願と自力の本願の違いは先ずは阿弥陀仏の本願を聞いて見なければ分からない。
聞いた時には弥陀の本願本当かなと普通は思います。
私は「自力本願」で、お浄土へ往けるはずもなくあるわけがない、「弥陀の誓願」知る迄は「日々の行いには常に気をつけ善い行いをしよう」を心がけます。。
しかし自分がどんなにもがき努力しても悲しいかな「自力では六道」のいずれかです。
阿弥陀仏の願力に頼る以外に六道から救われることはないということがハッキリと分かります。
そのうちにこの話本当かなと何度も思います、突然疑いが晴れます。
この時が信心決定と言います。
他力の信心は「阿弥陀様の心を頂く」と言います。
「他力」とは他人の力ではなく阿弥陀仏のお力を言い「阿弥陀仏から頂く信心を他力の信心」と言います。
お釈迦様の遺言に
「私が生涯説いたのは、この南無阿弥陀仏の特効薬の効能一っであった」と言われてます。
特効薬とは、死後の世界の「無明の業障の病」が晴れることであります。(こちら)
蓮如上人は、「無明業障の恐ろしき病」といわれています。
「弥陀の誓願」は私の下手なブログを読むより一度だけでも歎異抄をお読みください。
人生一転いたします。
何度読んでも、また読みたくなる終わりのない歎異抄です。
生きとして生けるものすべてが幸せでありますように!
他の人より「金、プラチナ、ダイヤモンド」にチョット長く携わっている普通の人間です」。
今日も長くなりごめんなさい。
ジュエリー・ニシオカ
にしおかまさる