読む、読まぬは自由、読んで知る自分の来世。

Last Updated on 2023年7月14日

第478回

いつもお読みいただきましてありがとうございます。

 

この世にはあたり前などと言うものは何ひとつありません。

 

お釈迦様の言葉に「人身(にんじん)受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。」(人としてこの世に生まれることは難しく、仏法に出会うこともまた難しい)とあり、「生まれがたい人間に生を受けてよかった。仏法に出会えてよかった。」と言う意味であります。

【如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり】と言います。

この意味は

お釈迦様は、私たちに弥陀の本願海を説くためにこの世へ生まれてきたと言われてます。

分かりやすく言いますと、お釈迦さまは【阿弥陀如来は私たち五濁悪事の人間を浄土に救うという本願をたてられたそのことを説くために生まれたということです】。

親鸞聖人も『正信偈』で、「如来所以興出世(にょらいしょいこうしゅっせ)唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)」《如来、世に興出(こうしゅつ)したまうゆえんは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり》といわれておられます。

 

朝、目覚めると今日も生かされている。

夜、布団に入ると今日も生かされたことへの感謝、「神仏]「ご先祖」に感謝。

日々「身・口・意」の懺悔は欠かせません。

 

浄土真宗には「弥陀の本願力」という教えがあり、

繰り返しますが、お釈迦さまはこの世に生まれてきたのは、阿弥陀様の「(本願海(ほんがんかい)」たちに教えるただそれだけで生まれてきたのです。

私たちは汚れた世界で、自らを穢し生きております。

五濁(ごじょく)悪事の群生海(ぐんじょうかい)全ての生きとし生けるものという意味に使われております。

 

以前読んだ本に

お釈迦さまに、弟子の一人が、
お釈迦さまは、大宇宙最高の悟りを開かれたお方、私たちのような苦しみなどはないのでしょう
とお聞きしたところ、

 

お釈迦さまは、
人々が、雨が降るように死んで地獄に堕ちていくのがみえる。それが私の苦しみとおっしゃったといわれています。(こちら)

お釈迦さまは生きているうちに私たちに、後生の一大事を知り、無明の闇を祓い信心獲得(しんじんぎゃくとく)を、【執持名号】を得て南無阿弥陀仏を信心せよと。

 

信心獲得したということは、煩悩具足(煩悩の塊)のままで、この世で悟りを開く事。

信心決定(けつじょう)、信心獲得(ぎゃくとく)同じ意味です。

 

無碍(むげ)の光明は無明の闇(あん)を破(は)する慧日(えにち)なり

【無碍】とは、何ものにもさまたげられないと言う意味で、

【無明】とは、真実の智慧がない人間の闇を破る太陽と言う意味であり続けますと

何ものにもさまたげられることの無い阿弥陀仏のひかり(光明)は真実の智慧がない人間の闇を破る太陽であると。

 

阿弥陀経には阿弥陀の浄土に生まれるのには、「少善根福徳」の因縁でもっては生まれることは出来ない!と説かれております。

自分の出来る小善行善行を繰り返していても、阿弥陀の浄土には生まれることは出来ない!と、キッパリと言い切られています。

 

ハッキリ申しますと、人間は善行をいくら積んでも極楽には往けないとお釈迦さまはおっしゃっており、お浄土には「阿弥陀様の本願力(他力の本願)」を頂くことであると。

それも今生きているうちに頂きなさいと。

私たちは、小さな善を積み努力を重ねて何とか目標に近づこうと頑張る、そんな方向を目指してしまいますがそれは自力の本願であり、阿弥陀様が我々衆生を救おうとしていることとは違う。

他力の本願に頼りなさいと、私たちがすることは少善根だと言われているのです。

 

誤解しないでください、小善根はもち論続け下さい、それによってお浄土には往くことは出来ませんが、あくまでも「阿弥陀様の本願力によってお浄土へ往くことが出来」、これを「他力本願」と言います。

何度も言います、浄土に生まれるのには「執持名号」です

南無阿弥陀仏の名号を執持しなさいと。

 

私たちが生まれてきた本当の目的は、

人身(にんじん)受け難し、今すでに受く】あり難い人間に生まれてきたのは絶対の幸せをつかみなさい、今度こそは六道に往くことがないように生きている今「後生の一大事を知り信心決定」をして絶対の幸せをつかんでくださいと。(こちら)

 

次は人間に生まれてくると云う保証はないのです。

畜生道(畜生の世界)

餓鬼道(生前強欲で、慈悲の心もなく、私利私欲のかぎりつくした罪)

地獄道(罪を継ぐなわせるための世界)

 

阿弥陀仏はすべての人は「煩悩の塊」であり助かる縁なき極悪人と見抜かれて「我にまかせよ、必ず救う」と誓われておられます。

それなのに自分で励む善で生死の一大事を解決できると自惚れている善人は、極悪人と見極められて建てられた本願を疑っているから全幅、弥陀にまかせる心がない。

故に「弥陀の本願にあらず」と本願の対象とはなりませんと。【浄土にお迎えできませんといわれています】

この誓こそ弥陀の誓願と言われているのです。

 

お釈迦さまは三世の来世について、五濁悪事の人間は皆必ず六道に堕ち、中には地獄堕ちると。

上記の三道だけは避けたいもので

輪廻転生もなくこの世での全ての煩悩も消え去り仏の修業をして「仏説阿弥陀経」の経本にありますお浄土へ!

「阿弥陀経」はお釈迦様の遺言を弟子たちによって「仏説阿弥陀経」と言う浄土真宗の大切なお経であり、1857文字ご縁があったなら目を通して見て下さい。

「五濁とは」

劫濁(こうじょく)は、戦争、疫病、飢饉、時代の汚れを意味し、今の時代そのもの、戦争、コロナ、食料飢饉。

見濁(けんじょく)見は、見解ということで思想などを意味し、すなわち邪悪で汚れた考え思想。

煩悩濁(ぼんのうじょく)煩悩で汚れている私たちで、欲望、憎しみ、嫉妬心、煩悩がわが身を苦しめているのです。「煩悩具足の凡夫と言ういわれです」。

衆生濁(しゅじょうじょく)私たちそのものが汚れているということであります。

命濁(みょうじょく)命の汚れ、自他の生命が軽んじられている、それによって生きる意義を失い生きているあり難さを実感できないのです。

 

これら五濁は今の時代そのものです。

すでにお釈迦様の時代から、いやそれ以前からあったからこそ、阿弥陀仏は私たちのような衆生を救おうとしたんです。

 

折角阿弥陀様から救って下さると手を差し伸べて下さっているのですから、地獄などにはいかず(輪廻転生することなく)お浄土へと連れて行っていただくことをお考え下さい。

 

信じる信じないはご自分次第

 

お釈迦さまは、弥陀の本願力という教えのためだけに、この世に興出された方であります。

私たちはどんなに善を積んでも自力では浄土へは叶わず阿弥陀仏の願力(他力本願)には絶対に及びません。

もちろん善は積むに越したことはありません。

 

仏教ではお布施にも

「乏しき時与えるは富みて与えるにまさる」

経済的、時間的に乏しい人が布施(親切)するのは、富んでいる人がするそれよりも素晴らしいと教えられます。

しかしどんなに素晴らしい善を積んでも浄土には往けません。

後生の一大事を理解して、信心決定(しんじんけっじょう)し、無碍の一道に出ることで阿弥陀様があなたをしっかりと抱きかかえて下さいます。

もう一度言います、大切なことは、執持名号(しゅじみょうごう)この名号を頂いた信心こそ【他力の信心】です。

 

私たちは自分の生観」を避けておりますが人間は100%死にます。

死生観とは、文字通り「生と死に対する考え方」のことです。

年齢に関係ありません、老いも若きも死ぬことに変わりません。

 

私はこのことを日光東照宮の三猿と同じと言ってます。

理由として、私たちは来世を「見ない」、「聞かない」、「言わない」、これらを口にするだけでも縁起が悪いとか、本当は怖いからだと思います。

死の世界が怖い、だから口に出さない、聞きたくない、自分の死を想像さえしたくない。

 

死などはまだまだ先の話と思っておられる方がたくさんおられます。

蓮如上人が書かれた御文(手紙)にこのようなことが書かれております。

お通や、49日、年回忌に読まれております。

「人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば」の「老少不定」とは、老いた人が先に死んで、若い人が後に死ぬ、と 決まっているわけではないということです。

 

お浄土に往くには

生前に、執持名号(しゅじみょうごう)この名号を頂き【他力の信心】だけです。

死んだ後では遅いのです。

家族がいくらお坊さんにお金を積んでどうか極楽へ行かせてくださいと言っても往けません。

どんな立派な戒名つけても往くことは叶いません。

生前、執持名号(しゅじみょうごう)された方はいつも「南無阿弥陀仏」という仏さまが守って下さり必ずあなたをお浄土へと連れて帰ります。

 

「南無阿弥陀仏」とは死んだ人が成仏していただくために唱えている念仏と思われている方がたくさんおられます。

「南無阿弥陀仏」と言う仏さまの名前のことです。

すなわち【阿弥陀如来=南無阿弥陀仏】です。

 

TVドラマで良く亡くなられた人を仏さんと言っておられますが、これは大きな過ちであります。

仏とは悟りを開いた方を言うので死人は仏さんと呼ぶのは間違いです。

 

 

生きているうちに後生の一大事を知り、いつ死が訪れてもあわてないようにすることが来世の自分を浄土へ導いて下さる仏は阿弥陀仏以外おられないのです。

十方諸仏は人間は救えないとまでいわれ、しかし自分の正覚をかけても救うと言われた方は阿弥陀仏だけであり、本師本仏と言われているのです。

本師本仏とは仏さまの最高位を言います。

 

死生観とは、文字通り「生と死に対する考え方」のことです。

 

 

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