いくら追い払っても生涯ついてくる煩悩

Last Updated on 2023年6月15日

第476回

いつもお読みいただきましてありがとうございます。

 

私たちが、

決して崩れることのない永遠の幸せになるためには(こちら)仏教を聴聞することが大事であると言われております。

 

お釈迦さまは

仏教は「法鏡」(ほうきょう)といわれ、自分の真実の姿を映し出す鏡のようなものであると。

「仏教を聴聞」することで「ありのままの自分を知る」と言います。

 

現世での、「出世、名誉、お金、名声」、これらは自分が死んだ後は一切もっていくことは叶いません。

いくらお金を持っていても、名誉、名声は後生の世界では一切通じません。

お浄土には、浄土真宗では念仏唱えるだけで「安樂国=お浄土」へと言われておりますが、それは大きな勘違いで念仏を唱えるだけではなく「南無阿弥陀仏の名号を頂き無碍の一道」に出た方がお浄土へと行くことが出来、死んだなら阿弥陀仏からお迎えがあります。

浄土真宗でも「無明の闇を破り信心決定」された方がお浄土へ往くことが叶います。(こちら)

「五濁悪世」劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁という人間世界を覆う五つの濁り(にごり)を教えたものです。

五濁は知るほどに我が身に当たることばかり。

 

自分が生きてきた人生が来世にかならず影響を与えると言われます。

六道輪廻に、六道の中には「畜生、餓鬼、地獄」があり絶対避けたいものであります。

避けるには生きているうちに後生の一大事を知り信心決定することです。

 

自分のことは自分が一番よく分かっていると思っても人間は、「出世、名誉、お金、名声、肩書」で自分を見失っている方がたくさんおられます。

 

死んだら自分が築き上げてきた、「出世、名誉、お金、名声、肩書」これら一切来世では何の役にも経ちません。

 

むしろ逆に邪魔をしてしまう結果になることさえも。

死んで、どんなに著名な方でも、お金を積んでも立派な戒名を頂いてもお浄土へとは叶いません。

 

自分のことを分かっているようで、分からないのが人間。

死んだら「自分の魂」はどこへ行くのか?

私たちは自分の死には見ない、触れない、聞かない、日光東照宮の三猿と似ております。

 

そしてこの身体は、いつまでもあるものではありません。

いつかは必ず無くなるものであり、死ねばすべて、自分のものではなくなります。

以前慚愧懺悔六根清浄を投稿いたしたところ一番私のブログで読んで頂いており感謝と同時に私も含め人の悩みは皆一緒であると痛感いたしました。

 

私自身煩悩で今も苦しみその辛さは充分知つております。

自身が苦しみと戦い消えたようでまたひょっこり現れる煩悩。

 

 煩悩というものは、いくら追い払ってもついてくる犬のように、まつわりついて離れません。

私たちを苦しめ追い詰めてくる煩悩、執着を捨てよと言いますが簡単に切り離せないのが煩悩、仏教を学んでいるうちに煩悩も今迄とは受け止め方が違ってきた自分に気が付きます。

煩悩は消えません、だから仏教を聴聞し、本も読み消えない煩悩と上手にお付き合いが出来たらと思っております。

煩悩の源は「身・口・意」と思っております。

 

「身・口・意」とは仏教の用語で「身(行動)」・「口(言葉)」・「意(心・思い)」のことを指し私たち人間の行いはこの「身・口・意」成り立っています。

だから心地よく過ごしていくためには

私たちが「自分」だと思っているものは、生きている間だけの借り物だと早く気づくこと、それに何事も受け入れることです。

仏教、知るほどに自分の過ちの愚かさに気づき日々懺悔、全て身口意から出たことばかり。

いつも長くなるので手短に書いて見ます。

身とは、自分が起こした行動

口とは、自分が発した言葉と思ってください。

意とは、自分の心

これら身口意が煩悩を作る源であります。

 

仏教は聴聞するほど、今まで知らなかった本当の自分の姿が知らされます。

 

私の身近な人、全ての方が幸せでありますように。

 

他の人より「金、プラチナ、ダイヤモンド」にチョット長く携わっている普通の人間です」。

 

ジュエリー・ニシオカ  

 

    にしおかまさる