弥陀は極悪人も【念仏】一つで100%必ず 極楽浄土へ誓う(歎異抄)
第435回
いつもお読みただきましてありがとうございます。
お読みになり実践することでご神仏さまから「徳」をいただけるものと信じております。
歎異抄
『歎異抄』親鸞聖人とお弟子さん「唯円」さんとの対話から「唯円さん」が書き残した「歎異抄』
しかし親鸞聖人ご自身の言葉が非常に正確に収録されていると言われ、その意味では親鸞聖人の直接書かれたものに匹敵すると言われます。
一番驚いたことは、今迄耳にしていた『他力本願』の源となる念仏『南無阿弥陀仏』の六文字です。
たったこの六文字のどこにその力が、これこそ弥陀が全ての衆生を救うために考えた念仏です。
念仏を唱えることで、死んだら全ての人が地獄にはいかず弥陀浄土の世界と。
しかしそれには「他力本願」ツユチリほど疑うことなかれ。
信じるとはすでに疑った心があると。
もちろん『他力本願』は知っておりました、『南無阿弥陀仏』の念仏により悪人も『極楽浄土』。
どのような悪人をも救うと申されております。
仏教の悪人とは殺人とか大きな犯罪者を言うのではありません。
しかしどなたでも極楽往生できるとは書いておりません。と、歎異抄には書かれております。
大切なところは原文と現代語で書いていきます。
第一章には
以下の言葉の一文がわかれば『歎異抄』が解かると言っておられます。
『弥陀の誓願不思議に助けまいらせて往生をば遂ぐるなり』と信じて『念仏申さん』と思い立つ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり』。
【すべての衆生を救う、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ】と歎異抄は始まります。
意味は【この不思議な弥陀の誓い通りに親鸞は助けて頂いた、弥陀が「死後の暗い心の病」を治し、無常の幸福に助け下され】。
【死ねば必ず、極楽往生へ往って仏に生まれ変わることがハッキリしますので、往生を遂ぐなり】
衆生を「南無阿弥陀仏の念仏は永遠の絶対の幸せにすることを誓う」念仏と理解して下さい。
弥陀の救いには、年老いた人、善人、悪人、一切の区別はなく全ての衆生を救うと。
なぜ悪人を救うかと言いますと、宇宙にはたくさんの仏がおられ、極悪人は救うことができないと他の仏とはちがい、ならばこの彌陀が煩悩の激しい極悪人を助けるために立てたのが弥陀の本願です。
阿弥陀仏の「摂取不捨」(せっしやふしゃ)意味は「収め取って捨てぬということであり」「絶対の幸せ」をいい「無碍の一道」とも言います。
第三章には
歎異抄で大切な一文
『善人なをもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや』
意味は『善人でさえ救われるのだから悪人はなをさら救われる』。
「摂取不捨」「収め取って捨てぬと」いうことです。
歎異抄には人間の病は大きく二つに分け
【治らない難病】と【完治する難病】がありと。
「治る病気」
【無明業障の病】と言い
無明とは煩悩、全ての人の苦しみの根源は【無明業障の病】にあり、死んだらどうなるか分からぬ【死後が暗い心の病】のこと。
この病にかかると、心は暗くなりいつ抜け出せるかも分からない。
早くこの【無明業障】の病から抜け出すことを釈迦は生涯かけて説いた【弥陀の誓願】とは
十方の諸仏は苦しみ悩む人を何とか助けようと、しかしあまりにも罪や業が重く、煩悩の激しい悪人であり助けることができないと。
それならば、この彌陀が必ず助けよう。
死ねば必ず極楽往生出来るように。
叶わなければこの彌陀が腹を切ろうとここまでおっしゃいました。
往生とは、死後「極楽浄土へ往(い)つて、仏に生「う」まれることを言います。
『南無阿弥陀仏』には衆生を『往生一定』をするはたらきがあると。
『往生一生』とは
死んで極楽往生、歎異抄には分かりやすくこのように書かれてます。
『隣のお婆さんが、今朝、往生したそうな』
往生とは、予想外の困ったこと、等に使用され『往』は『往復』の片道切符の『往』でありまます
『生』は生まれるとか生きる。
すなわち往生とは死後『極楽浄土』ヘ往って【仏に生まれ変わる】ことを言いう。
『一定とは』一つに定まることでハッキリする、死ねば極楽往生へ往き仏に生まれ変わることができることが、生きている現在ハッキリすることを『往生一定』と言います。
私に任せなさいと命をかけて誓われたのが【弥陀の誓願】です。
仏には智慧と慈悲もあるのですが十方の諸仏に比べ「弥陀の智慧はけた外れに勝れ」、別名弥陀のことを「智慧光仏」とも言います。
「仏の最高峰におられるのが「阿弥陀如来」と歎異抄では書かれております」。
仏教では悪人とは「煩悩に苦しんでいる人」を言い、犯罪者などを指しているわけではありません。
釈迦は全人類の難病を治すことができる唯一の「名医と弥陀を紹介」し「弥陀の誓願ただ一つ」を説かれました。
親鸞聖人の教えが書かれた【歎異抄】にも弥陀の誓願しか説かれてはいません。
【絶体的幸福と相対的幸福】
私たちが知っている幸福とは、相対的幸福です。
では相対的幸福は生きて行くときは大切であり、しかし悲しい定めがあることを承知せなばなりません。
1、キリがない。
人間の欲には満足と言うものがありません。(貪欲)
2、続かない
幸福は続かないと言う悲しい定めがあります。
昨日の幸せは、ある日突然に無くなり(諸行無常)なのです。
3、死の前にはそう崩れ
大きな不幸も無く生きてきても、死に行くときには全てを失う。
地位、財産、名誉、は何の喜びでしょうか。
これらが相対的幸福の結果で、
「絶対的幸福は、人間に生まれて良かった、私ほどの幸せ者は無い」
死が訪れても、私たちは信楽(しんぎょう)と言う「無上の大安心、大満足」で相対的幸福と違い「絶対の幸福」は崩れないという大き違いがあります。
【死後が暗い心の病】がなぜ煩悩(こちら)であるかお分かりですね。
長生きしたいという【生老病死】欲の煩悩。
禅僧一休は「元旦は冥土の旅の一里塚」と
親鸞聖人は死んだらどうなるか分からない心を【無明業障の病】と言い、全ての人がかかっている最も恐ろしい難病と言っております。
死んだらどうなるか分からなぬ心を【無明業障】の病と言います。
死後の世界想像するだけで恐ろしい世界と思いがちです。
【無明の煩悩我らが身にみちみちて】と言われるように煩悩が自分の死を苦しめているのです。
それはどなたも知らない世界であり、どなたも知らない世界に光明を照らして下さったのが「阿弥陀如来」であります。
六道の世界に行くのか【他力本願で極楽浄土】を目指すかはご自分の判断で。
閻魔大王、奪衣婆にも会うことない【極楽浄土の世界】に。
ただ言えることは、「自分の死生感」はしっかりと見つめておくことが大切であります。
必ず訪れる死という現実に少なくとも一度は直視しておくことはとても大切なことと思います。
【治らない難病】
欲、怒り、愚痴、すべての人が生まれながらに侵されている「煩悩」と言う難病。
何度も当ブログでも書いてまいりました三毒のことであり(こちら)、煩悩と言う治らない難病に侵され苦しんでいる「心の悪人」だと親鸞聖人は言われております。
愚痴は仏教では、ねたみ・うらみの心を言い、「まさるをねたむ」と言われるように自分より優れた相手の才能を決して快く思えない心です。
三業に「身・口・意」があり、貪瞋痴と同じような意味合いです。
三業(さんごう) 仏教用語で
(1) (身業)身体的なのことのこと
(2) (口業)言葉を発すること
(3) (意業)心に思う働き のこと
これらは必ず善悪「縁起」=【因果応報】をもたらし、「業」があるかぎり輪廻は続くと考えられた。
人間死ぬまで煩悩の塊であり、臨終の一念に至る迄とどまらず消えず絶えずと有り(親鸞聖人)
しかし煩悩は消すことはできなくとも心の持ち方でかなり「抑えることができる難病」かと思われます。
歎異抄では
「阿弥陀仏の不思議な誓願」に助けられ疑いなく弥陀浄土へと往く身となり【絶対の幸福摂取不拾の利益(りやく)】にあずかる。
歎異抄は分かりやすく要約致しますと、阿弥陀様の念仏(南無阿弥陀仏)を唱えることで極楽浄土に行ける。
この六文字は弥陀が苦悩し、考えた「南無阿弥陀仏」という特効薬の効能を「破闇満願」(はあんまんがん)と説かれてます。
「死後が暗い心」を「死後が明るい心」する力を破闇満願と言い、
「南無阿弥陀仏」を唱えるだけでどなたも極楽浄土行けますとはどこにも書いておりません。
自分の励む善で生死の一大事を解決できると自惚れている善人は本願を疑っているので、全幅、彌陀に任せる心がない、このような人には他力本願はありませと弥陀は申しております。
無明の業障の病【死後が暗い心の病)が完治して、永遠の幸せになっている人が、極楽浄土に往って仏になれると説いた人が親鸞聖人です。
【生きている「平生」(へいぜい)に早く「死後の暗い心の病」】を治し無上の幸福になりなさいと説いた方です。
親鸞聖人の教えは【平生成業】(へいぜいごうじょう)と言われ、親鸞聖人の一枚看板【平生成業】であります。
人生には必ず達成しなければならぬ大事業があり『死後が暗い心の病』を完治し、無上の幸福になりなさい。
それが今生きている間に達成できるから急ぎなさいと、生涯、教え勧められたのが親鸞聖人です。
釈迦が生涯かけて説いた【弥陀の誓願】とは
『死後が暗い心の病』を完治し、無上の幸福になりなさい、生きているうちに無上の幸福になり、死後も極楽浄土。
弥陀の救いは生きている【現在と死後と2回あるので「現当二益」(げんとうにやく)】と言います。
【現世でも無上の幸福、死んでからも極楽浄土(弥陀の世界)】二重の歓びと親鸞聖人は説いております。
死後は絶対の幸福により阿弥陀如来が極楽浄土へ往かせると。
このブログは『万年堂出版』歎異抄ってなんだろうを参照にして書いたものです。
歎異抄は知っておりましたが、これほど分かりやすく書かれているものはなく、今回は私の側におられる大いなる何かが私に読まさせたのだと思います。
「やがて死ぬのになぜ生きるのか」
答えは、歎異抄にありました。
と言う私も小学生の頃、死がとても怖く布団に入っても寝付けない日が続きました。
私は宗教に一切関係なく、
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